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懐かしい未来

IMG_4760.jpg12日の朝に高尾から東京駅に向かう。
蒸し暑いうえに、東京駅は帰省をする人たちで賑わっている。
指定席が取れなかったため、1時間近く自由席を確保するために東北新幹線の列に並ぶ。

無事に自由席を確保し、レンタカーに乗り継ぎ、夕方前に初めて南三陸の地に着く。
大槌町と同じく、廃墟となったビルと山積みにされたがれきと呼ばれるものがだだっ広く目の前に広がる。

13日、前日に仕事は済ませておいたけれど、今回はプライベート&仕事で「南三陸町の懐かしい未来を実現する会」のイベント「なつ地図まつり」にスタッフとして参加する。
大きく大きく出力した町の白地図に、住民の方々に来てもらい、被災前の思い出や記憶を思い思いに描いてもらうという企画。東京のミーティングに出た時、まさか担当を任されるとは思っていなかったし、当日まで仕事に追われて全く関わることができなかったので、当日を楽しみにしながらも心配しながら迎えていた。

でも、そんな心配は必要なかった。ワークショップで著名な中野民生さんなども同じ場所を担当する事になったし、なによりもその「場」を作り出したのは、地図を描き出す人たちだったから。

現場となった志津川高校の大きい教室が開場されると、様々な人が訪れ、用意してあった巨大な白地図に、友だちの家、遊んだ場所、美味しいお店、買い食いした場所、寄り道した場所、買い物通り、市がひかれる場所、デートスポット、町の遺跡、歴史、ご近所さん、海産物、etc.
などなどなどなど、こちらが寄り添うと、勝手にその人の記憶の扉が開かれて、次々と町の歴史と記憶が描かれていった。

ある人は、隣近所40軒近くをすらすらと書き込んだ。
ある人は、その町に言い伝えられる物語を書き込んだ。
ある人は、子ども時代に遊んだ公園の風景を細かく描いた。
ある人は、あるバーに80歳近いママが唱う田原俊彦の「抱きしめてトゥナイト」が最高だと絶賛した。

地図の上で、周りで、みんなが悲壮感を漂わす事はなく、微笑みながら、懐かしみながら、時に談笑していた。確かに素敵な時間が流れていた。その空間は僕らが作り出したものではなく、そこの町の人々が作り出していた。

そんな風景を見ながら、
「以前」の町の様子を知らない自分も、その町を知った気分になった。
「以前」の町に行きたくなった。
「以前」の町の『近所力』をまざまざと感じ、そんな町をうらやましく思った。
「これから」の町に期待した。

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(最後は南三陸の「こども夢花火」を見ることができ、いい夏を締めくくれました。)


 
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被災地への思い

9時前に高尾の研修所からタクシーに乗り込む。
タクシーの運転手にこれから南三陸町に行くことと話すと、なぜか運転手の昔の彼女の話になる。
その彼女は宮古にいて震災で亡くなったらしい。30年以上も前の関係であり、運転手さんは連絡も取っていなかったけれど、新聞で同姓同名の名前があり、電話等で確認をしたとのことだった。

亡くなったことがわかった時、とてもつらく3日間以上人と話す気を無くしてしまったとのこと。

でも息子さんにその話をしたら一緒に墓参りをしてくれると言ってくれたそうだ。
バックミラーから私を見る運転手さんは悲しくもあり、でもどこか暖かな目をしていた気がする。
もし、自分の好きだった人や大事な人が、もう関係が途絶えていたとしてさえ亡くなったら、どんな気持ちになるだろう。考えると苦しくなった。

だから、身近な人や地域に被害者を持たない外部の人間である自分が「活動」を行うことに、どこか違和感を覚える。少なくとも「支援」と言う言葉を自分が使うことはおこがましいとさえ思う。
そんななか、今日も被災地に向かっている。
地元の若い人たちが集まり、「南三陸の懐かしい未来を実現する会」が行う「なつ地図祭り」の手伝いをするために。
このイベントは主体が地元であり、地元のために動いているイベント。
おこがましさは感じず、楽しみにしている自分がいる。

色のある世界へ


仕事で岩手県の復興支援プロジェクトに同行してきた。

 被災地の方々に被災された地域を案内してもらう機会をいただいた。

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港はめちゃくちゃになっており、震災が起きてから4ヶ月が経った現在も警察の方が捜索を行なっていた。その港におかれたギター。
「なぜ、こんなところにギターが」とつぶやいた俺に、海の専門家の方は「なんでもあるんだよ」と返す。しかし、何もかも転がっていても、ここにはもう息づかいがない。

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家に置き去りにされた時計は、津波の時刻を刻んだまま。
土台しか残らない家に玄関、台所、居間があったことを想像して、玄関であっただろうところに立ってみる。そこには生活があったのだということがうっすらと自分の中に感じることができる。しかし、それは他人としての生活感。本当に被災された方は、まるごと生活を流されてしまったのだ。それに比べれば自分が感じることができる生活感なんてどんなに小さい事だろう。

案内してくれた地元の方は、「ここにうちがあったんだよなぁ。いま、なぁんにも無くなってしまったけれど、これが不思議と実感がわかないんだ。」
60年近く住み続けてきた地域が一瞬にしてなくなってしまうという事はどういう事なのだろう。もし今、俺の住んでいる地域が無くなってしまったらと考えたら。。。

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避難所で見せていただいた、地域の昔の写真。
これの方が不思議と避難所の外の世界より色が感じられる。

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まちの中で、「がれき」の中から見つけられた写真を集め、ギャラリーとして公開、持ち主の方に返すという場所が地元の方によってつくられていた。
卒業証書、結婚式の写真、学校の集合写真、家族の写真、etc.
カラー写真が、かつての暮らしを彷彿とさせる。

今は何もないかもしれない。しかし、写真が描くような色のある世界が少しでも早く訪れる事を願っています。


〜〜〜

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行った日は、七夕だった。駅のホームにも短冊がたくさんあり、子どもは「くものうえでいっぱいおひるねしたい」と書いており、その横には、「元気で明るい岩手に戻れますように」というお母さんの声が。

〜〜〜
釜石市にもよらせていただいた。
釜石漁協は8割の方が亡くなられてしまったとの事だった。
それでも、鮭が川を上り始め、ウニ、海鞘、若布の準備といった漁の季節は始まっている。残った方々がそんな中、壊れた舟を直していた。しかし、舟は直っても舟を動かすモーターが手に入らないとの事だった。話しによると、メーカーのヤマハが国の一括買い上げ支援を待っており、個人へのモーターを提供するのを出し渋っているとのことだった。漁師の方は、呆れていた。行政の動きもさることながら、企業の醜い部分を垣間みた瞬間だった。

そんななか、隠していたウニをいただいた。
生ウニをその場で食べたのは初めてだった。濃厚なウニの美味しさにびっくりした瞬間でもあった。

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復興のために動き出している力強く、暖かい漁師の方々が、早く漁ができますように。

〜〜〜
今、被災地ではハエが大量発生している。
俺らがウニをいただいていると、どこからともなく大量のコバエたちがたかりだし、ウニの殻に群がっていた。これから暑くなってくるとどうなってしまうんだろう。
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〜〜〜
今回、同行させていただいた調査で、案内中は暗い様子だった地元の方が最後に未来を話し始めたときに、生き生きと目を輝かせていたのが忘れられない。「子どもも大人も未来を描くような仕事をして行きましょう!」
そんな果てもないような、夢物語かもしれない約束をしてきてしまったのだが、出来る限り力になれるよう今あるプロジェクトを進めていきたい。

今回、痛感したのは、自分が汗をかかない事へのいらだちだった。テレビでは感じることができない地元の空気には触れることができた。復興の息吹も感じることができた。
しかし、地元の方、専門家の方と一緒に町を歩くが、自分は専門性がない分、なにもできないもどかしさは積もる一方だった。青年海外協力隊や群馬での仕事で、その土地の人と一緒に汗をかき、面と向かって語り、ともに活動していくということの大切さを勉強してきた。今回の仕事でも、地域の人々と汗をかけるよう自分を磨いて行かなきゃならないし、何をすればいいのかと考えるきっかけになった。
 
〜〜〜
と、今回は少しダークな話題になりましたが、
次回は、山形の自然の写真をいっぱいお届けします!!

被災地に「愛」を

 昨日、今日と強行日程で岩手県大槌町、遠野市に職場の被災地支援プロジェクトの調整・打ち合わせに行ってきた。

震災から3ヶ月経った現場を見る。
テレビでずっと見ていて、ある意味慣れてしまっていた海辺の光景を目の当たりにする。1ヶ月前に現地に来ていた上司は、「ずいぶんきれいになったわ」と言うが、車や舟が横転し、ビルや家屋が破壊されている姿は胸を突くものがある。震災直後にはどんな様子だったのか、それはもはや想像することはできない。

テレビの前で報道みていつももどかしく感じていた。
でも、やはり目で見て、言葉を聞き、肌で触れ、匂いをかぎ、感じる事の重要さを身にしみてわかった。当事者意識を持つ事が出来た気がする。

〜〜〜
現場に向かう先々で、「支援ありがとう!」「支援に感謝しています!」「私たちも頑張ります!」「顔晴ろう!」と書かれた垂れ幕や看板などがある。それをみると、現地の人々の方が逞しく、こちらが元気づけられる。それらはあまたあり、写真に収めたかったが、運転要員だったため諦める。

〜〜〜
今回、職場の支援プロジェクト(現地の方々に震災前の暮らしと復興後の街のビジョンをお聞きし、過去と現在と未来をつなぐプロジェクト。)について、住民の方、中間支援NPO、自治体の方と話をしてきたのだが、先方から出る印象的な言葉がいくつもあった。

避難所に役場の方々が来て、これからの復興計画について話をしているところに立ち会う機会を得た。そのとき、住民の方は、
「偉い学者さんなどが来ていらっしゃるようだが、専門家任せじゃないまちづくりをしてほしい。この地域を知っているのは自分たち自身なんだ。自分たちの意見をどうか汲み取っていただきたい」
と言っていた。

また、私たちと避難所の方々と円座になってプロジェクトの説明をしているときには、
「仮設住宅は徐々に準備されつつあるが、今必要なのは、衣・食・住ではない。医・職・住だよ。」
と言っていらした。本当にその通りである。
「避難所の中でいろんな付き合いが出来たのも良かったわ。でも、やっぱり自分のペースで生活したいの」
ともおっしゃった。(ちなみに言った避難所は、パーテションもなく、カップラーメンが配給されていた。)
「そりゃ、仮設住宅ができるにこしたことはない。抽選だろうが何だろうが、早く入りたいね。でも贅沢を言えば、鉄筋じゃなくて木造がいいよ。」

「夢でもいいから、住民の、住民による復興計画をつくりたいね!その思いを描くのを手伝ってよ。」と嬉しい言葉をいただく事も。

(今回は井上ひさしの小説の舞台である大槌町の吉里吉里地区の避難所に行ったのだが、ここの方々はとても結束力が強く、協力し合いながら生活を送っているという。そのせいか、とても明るく、前向きに過ごしておられた。(物資の配給を、バナナの叩き売りのように楽しそうに渡し、受け取っている姿がとても微笑ましかったです))

〜〜〜
そして、最後に訪れた町役場では、とてもアツい役場職員の方に会うことができた。ちなみに大槌町は町長を始め、多くの職員の方がなくなってしまっている。その中で、不眠不休、「疲労困憊」の字も書けないくらい疲労困憊しているというのだが、その方が語った言葉が忘れられない。

「画一的な復興計画ではなく、以前から存在する地域のアイデンティティや息づかい、風土がわかる復興をしていかなくちゃならない」

「そりゃ、震災直後に比べれば時間的な余裕も出てきたけれど、職・住が「無い」状態は変わっていない。でもね、明日が「ある」。そう考えて前向きにやってますよ!」

「私ね、がれきの中で、もう泣くことも出来なかった。そして、笑ったんですよ。そこで覚悟が決められた。前に進む覚悟をね。」

「これを言ったときはバカにされたんですけどね、『何が欲しい?』と聞かれた時、こう応えました。『愛と知性が欲しい!』ってね。愛ですよ、こういう状況の時、物事を動かすのは。あ、宗教とかじゃないですよ。」

自分にとって永遠のテーマである「愛」がここでも聞けるとは思わなかった。
これから築かれる東北との「縁=つながり=愛」を大事に、仕事をしていきたいと思った2日間だった。

身近なものを

身近なところに愛でるものがあった。

この季節、庭先を彩っている花々。
昔は見向きもしなかったけれど、最近はその美しさが少しはわかるようになってきた。
親父と一緒に手入れしたかったかも。

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